佐賀県有田市を拠点に器を制作する作家の山本亮平さんとゆきさん。ふたりの工房を訪れると玄関であたたかく迎え入れてくれたのは、制作の中でも原料づくりや土練、ろくろなど、主に器の”形づくり”を担当する亮平さん。口数は少ないけれど、お茶を振る舞う所作に無駄がなく、凛とした佇まいのゆきさんは、絵付けを担当する。
ふたりの作品や制作過程は、2024年春夏コレクションのインスピレーションだけにとどまらず、その一部としても重要な役割を担っています。黒河内真衣子は、この工房に足繁く通い、ふたりの指南を受けながら、コレクションに登場する染付の陶器ボタンを手作りで制作したのです。
今回は、工房の居間でいつものようにお茶を飲みながら、会話を楽しむ3名の鼎談をお届けします。
黒河内真衣子(以下、黒河内):山本さんご夫婦と一緒に作業をさせていただけることが本当に幸せ。お茶もよく振る舞ってくださるのですが、実際にその茶器を作っている方に、その場でお茶を入れていただけるというのが嬉しくて。私も山本さんの茶杯や急須を使っているのですが、本当にお茶が美味しく感じられるんです。作られたものにその人柄が映し出されている。おふたりがまとっている繊細な空気や、そういうもののすべてが最終的に形になっていて、日常的にお皿を使ったり、お茶を飲むことで、人柄を物から感じることができる。「この感覚はなんなんだろう」と考えている中で、こうして何度もお会いして実際にお人柄に触れる中で、そういう感覚に近づける瞬間がたくさんありました。私がはじめて山本さんの器を購入した時に、独特な気配をまとっていて、硬いものなのに柔らかさと芯の強さの両方を感じたんです。その時は、今の作品に比べると絵付けがはっきりと描かれているものもありました。私は絵付けがしっかりあるものと、儚く消えてしまっているものを両方購入し、その違いにびっくりしたんです。
山本亮平(以下、亮平):絵柄が儚くなりはじめの頃だったかな。
黒河内:おそらくそうだと思います。古伊万里といえば、いわゆる豪華な絵付けのようなものを想像していたので、お皿の上で絵が溶けてしまうような様子が衝撃的でした。なおかつ、それを日常で使うとどんなお料理にも溶け込んでくれるという部分に惹かれました。それからいつかお会いしてみたいと思っていて、その後ご縁をいただいてここを訪れることになりました。山本さんは、私が最初に購入したような絵柄が儚いものとはまた違うようなスタイルで作っていた時期もあるのですか?
亮平:絵付けに関しては、素晴らしい江戸初期の器を有田の色々なところで見ることができます。絵付けはゆきさんが行うんですが、最初の頃の絵付けは割と初期伊万里の写しのようにそのままやっていたこともありました。
山本ゆき(以下、ゆき):亮平さんと出会った頃は結構しっかり描いていましたよ。
亮平:でも、なんとなく違和感というか、心がざわつくんですよね。その違和感を感じながら進めていた時に、400年くらい前の陶片、ほぼ完成形が残っているものに出会いました。これがすごく魅力的。
黒河内:絵柄が儚くて、なんだか山本さんを感じますね。
亮平:押し出しているわけではない。全部が混ざりあった感じがすごく好きで、これをベースにゆきさんに絵付けをちょっと薄くしてもらって、そしたらざわざわした心が落ち着いてそれを機にどんどん薄くなっていった。最終的には、自分たちでも白磁かな、と思って窯から出して、後から染め付けだと気づくくらいの薄さになってね。
黒河内:山本さんは素焼きをせずに生地の状態で描いていますよね。
亮平:そう、生の状態で。
黒河内:私もはじめて素焼きをしていない状態の柔らかいものに、絵付けをさせていただいた時に想像以上に柔らかくて。最初に持った時に一個潰してしまいました(笑)。そこに絵を描くから滲むように浸透していく感覚があって。これにどうやって描いているのだろうと驚きました。
亮平:一般的には素焼きをするのだけど、うちは生土なので、絵の具がさーっと染み込まずになんだかゆらゆら、漂ってるような感じになる。
黒河内:素焼きをしないで絵付けをしていたのは最初からですか?
亮平:割と絵付けの前から、ひょっとしたらもう素焼きはいらないかもしれないとなっていました。初期伊万里が素焼きをしてないというのはわかっていたのと、あとは、こういう魅力的な陶片を見て、まずどこから思いを寄せていくかを考えた時に、例えば、素焼きをした場合にこういう濃淡やムラにはならない。昔は、素焼きをしなかったから、何もしなくてもムラができる。自分の好きな焼き物の400年前の作業工程に美しさの秘密があるのかなと考えるようになりました。
黒河内:昔の人はこういう美しさを見出すために素焼きをしなかったわけではなく、その方が効率が良いからやっていたのでしょうか?
亮平:そう。あと、その当時においてそうせざるを得ない状況だった。例えば昔の梁も機械がないから、手作業で作っていくとなんとも言えない揉みの跡が生まれる。ただそうせざるを得ない状況での結果に過ぎない。僕たちも結果に過ぎないという状況にしたかった。
黒河内:なるほど。
亮平:それで土窯まで作ることになってしまって。
黒河内:私は、今の窯のある場所の木の伐採をはじめたところから見ていたので、「これから窯にするんです」っておふたりがおっしゃっているのを聞いて驚きました。
亮平:森みたいな状態だったよね。
黒河内:その伐採した木を最後、窯の中に詰めて焼いていましたよね。だから、そこの土で、そこで切った木が、また焼かれて、中が焼き締まってきて、何ひとつ傷つけてない創作。今、いろいろなことが発達しているこの現代で、山本さんたちは、どんどん400年前に戻る作業をしていることに衝撃を受けました。でも、それが戻るだけではなくて「戻りながら進んでいる」ということに同時に感銘を受けて。もちろん作る上での難しさもありますし、土窯は、煉瓦や電気窯に比べると、原料の難しさや、窯が崩落する可能性もある。そうしたリスクも含めた上でものを作るのは、そこにしかできない新しさや時間も生まれている。量で見れば、おふたりが作れる限界の量があると思うのですが、それを世界中のお客さんが待っているというのが、私が憧れるものづくりのあり方なんです。もちろん、自分がやっていることにすごく誇りを持っているけれど、量も作っていくし、同じものをいくつも作るということの美しさと罪悪感みたいなことの狭間で常に揺れています。山本さんも、同じ種類や同じサイズ感の茶杯や、お皿を作ることがあると思います。昔の作り方をなぞりながら、今、新しい創作中で、数を作るということはどのように捉えていますか?
亮平:数はね、本当に必要分を作るだけで、今は個展がメインなので注文制作はほとんどしない。だから、そういう意味での量産はないんだけど...。ちょっと話を戻してもいいですか?さっき黒河内さんが「狭間」と言いましたが、黒河内さんが作る洋服やこの間、泉山で見学した春夏コレクションのキャンペーン撮影を僕は本当に美しいと思っていて。今聞かれたこととは変わってしまうのだけど、僕は個人でやっているから、自分が作ったものがダイレクトに表現できる。でも、洋服は職人さんなどいろいろな人の手を介していく。おそらく、繊維一本から考えられていて、できたものと自分のイメージの差異はどのように感じでいるのかなと、ずっと気になっていました。
黒河内:私は、一番最初に頭の中で描いたものと、完成形が一緒なんです。最初にお洋服が見えていて、それに辿り着くように焦点を合わせていくものづくり。よく言えば最初から見えているし、悪く言えば自分の描いていることの枠の中でしか作れないので、そこを飛び越えるようなことは基本的には起きない。それが自分のものづくりかもしれない。だからある意味、デザイン画の段階で限りなく見えているんです。
亮平:頭の中に完成形がある?
黒河内:技術的なトライはもちろん毎回ありますが、こういう風にしたい、というのが明確にあって、そこに向かう作業がほとんどです。なので、思い通りにならない要素を持った土を触った時はまったく違う感覚でした。
亮平:思い通りにならないですよね(笑)。
黒河内:全然思い通りにならない(笑)。お弟子さんもとらず、ろくろ場に人を入れないおふたりに「ろくろやってみなよ」と言っていただいた時も、思うようにいかず、信じられないくらい焼き物の才能がないな、と思ってしまいました(笑)。山本さんと一緒にボタン作りをする中で、私のデザイン画のような輪郭線からすべての造形や最終形を考えるのではなく、物体から何になるかを考えるという作業をはじめて行いました。もちろん、おふたりは物体をどういう形で引き算して、かたちにしていくかというのは想像が付くのだと思うんですが、私の中にはその力がない。粘土を丸めていくところからのスタート。でも、それがとても面白かった。
亮平:マメの洋服を見て、焼き物と洋服の制作工程は明らかに違うと思いました。特に自分は割と最後は窯に委ねる。どちらかというとできたものを受け入れる体勢。でも、黒河内さんの頭の中にあるものを形にするという力はすごいと思います。
黒河内:おふたりのものづくりは、祈りのような、信仰のような作業ですよね。投げやりで窯に任せるのではなく、祈って、錬金術のように「焼けておいで」って感じで委ねて。最後にそこで窯の力が加わり、新しいものに変わっていく。でも、いくら祈っても天災と一緒で、天気が荒れたり環境が悪かったらうまくいかないときもありますし、窯の機嫌が悪いときは、思うようにいかないこともあるでしょう。でも、それを受け入れるという姿勢はポジティブな学びでした。
亮平:黒河内さんとボタンを作っているときに試作品をみて黒河内さんが「やっぱり違う」とおっしゃった。作ってる中で黒河内さんの思い描いたものとズレてたら、許せないんだろうなってのを感じた(笑)。うちはあやふやなもので「まあいっか」が多いですよ。
黒河内:そんなことないと思う(笑)。
亮平:でもね、黒河内さんが常に自分の心に向き合ってることに驚愕するんです。所々に「心」というキーワードが感じられて。おそらく、自分の心だけではなくて、例えば以前の縄文のコレクションの時にも縄文人の「心」にフォーカスしたり。だからこそ、できたものが最初のイメージと一致しているという感覚と、うちが窯に最後は任せるという感覚。方法は違くても、なんだか一緒のような気がする。それをこの量産でやってのけてるのがすごい。
黒河内:忙しいと、「本当にそれが綺麗と思えたか」や「自分の心の中に何か触れるようなものがあったのか」みたいなことを問う時間すらも忘れてしまう。でも、ここに来ると、すごくハッとするんです。それは、ゆきさんが生けているお花や、こうやって飲んでるお茶に、山本さんたちの中の心地よさとしての美しさが生きている。そういうことに触れられるというのは、やはり人生の中でそんなにあることではないんです。そんな人にもなかなか出会えない。だから私は、そういう気づきを得るために、佐賀に来てしまうんです。
亮平:それを言ったら、今回のコレクションはテーマこそ初期伊万里だけれど、完成した洋服も、焼き物に近いものを感じた。生地があって、絵付けが入って、上に釉薬がのるという焼き物の層。そうしたレイヤーを洋服で表現してさらにそれがしっかり伝わるっていうのが、本当によく焼き物をみていたんだろうな、と。
黒河内:それでも、ひとつのコレクションですべてを消化しきれないぐらい、たくさんの美しい景色に出会い、絶対にまたやろうって思うんです。さらに、視覚的な美しさもあるけれど、使うことでしか得られない感覚もあります。例えば、茶杯だと口に当てた時にスーッとお茶が入る感覚とか、ゆきさんも言っていた、急須の湯切れを何回も試したという話とか、その繊細さがとても大事。服作りでいうと着心地になるんですよね。例えば、茶杯の口当たりは、シャツだったら首に当たる襟の高さ、ニットだったらその柔らかさかもしれない。そういうところまで考えて、もっともっと追求していきたい。このコレクションだけではなく、自分のものづくりの中でそういう感覚を研ぎ澄ませていきたいと思います。やはり、お茶を飲むようになってから、作られるものは変わっていきましたか?
亮平:茶杯は、ろくろの最後の締めの一周は意識はする。意識はするんだけど、そこはうちの場合すごく微妙なところで、あんまり一生懸命になっても良くないというか、物として固くなるのが嫌で、焼き物ももちろん固いんだけど柔らかい状態でいたいというのは、すべての工程においてある。ちょっと気が抜けてるぐらいがいいのかな。
後編へ続く。